2020年4月1日(水)志村けんさんが出演されたファミリーヒストリーの再放送がされました。
志村家のルーツは武田家家臣との関係がとても深かったそうです。
そこで今回は
『【画像】志村けんと武田信玄の関係がヤバい?志村家ルーツを徹底調査!』
について記事を書いていきたいと思います。
【画像】志村家ルーツを徹底調査!
志村家の仰天ルーツとは甲州の武田信玄がいた武田家の家臣であったことです。
当時の『小人頭横目衆』の筆頭に書かれている志村又左衛門が志村けんさんの祖先にあたるようです。
つまり、志村又左衛門(貞盈・さだみつ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将旗本だったのです。
志村又左衛門さんとはどんな人物だったのでしょうか。
経歴を見るとすごさがわかりました。
志村又左衛門(志村貞盈)さんの主君は
- 武田信玄
- 武田勝頼
- 徳川家康
と誰もが知っている天下の武将のもとで仕えていました。
志村又左衛門の経歴
- 永禄10年(1567年)頃に成立と推察される「武田信玄陣立書」に旗本の横目衆、各鉄砲に所属。
- 織田信長の甲州征伐の後、本多正信の取りなしによって早期に徳川家康につきご朱印状を受け取り、甲州九口之道筋奉行の一人となる。
- 天正3年(1575年)長篠の合戦で武田軍に従軍。
- 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに従軍。
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍。
- 1590年(天正18年)に徳川家康の国替えに伴い、甲斐より小田原征伐直後の混乱した八王子へ配下50名の同心と移住。
- 9人の八王子千人同心の千人頭の一家となった。
- 後に部下同心が100人に増員される。
日本の歴史の教科書に載っている名だたる武将のもとでとても活躍していたのが志村又左衛門さん。
志村けんさんがその末裔と知りとても驚きました。
【画像】志村けんと武田信玄の関係がヤバい!
武田信玄と志村けんの関係についてもう少し掘り下げます。
武田信玄は武将として天下を轟かせた知名度抜群。
また、志村けんさんはコメディアンとして知名度抜群。
時代は違えど共にこの日本という国でとても有名な二人。
そんな二人は決して遠い存在ではなかったのです。
武田信玄(武田家)には武田四天王という優れた武将がいました。
その四天王のうちの一人が山県昌景でした。
そして、その山県昌景の家臣が志村又左衛門さんでした。
志村けんさんの祖先の方が武田家の家臣として武田信玄に仕えていたのです。
【画像】志村又左衛門は『長篠合戦図屏風』に描かれていた?
実は武田家の四天王・山県昌景とその家臣の志村又左衛門の二人は長篠合戦図屏風の一部に描かれていたのです。
この赤丸が志村又左衛門さんです。(山県昌景の首を持っています)
そして、右横の赤枠の中に薄く志村又左衛門と書かれているのがわかりますでしょうか。
志村又左衛門さんは山県昌景さんの首を持ち帰る過程には二つの説が存在します。
一つ目の説
武田四天王の一人・山県昌景(やまがたまさかげ)が長篠の戦いで討ち死にしました。
そのときに敵からその首を取り返したという記録が残っていたのです。
二つ目の説
山県昌景たりは馬防柵に向かって何度も突撃を繰り返しますが、少しずつ劣勢になっていきました。
山県昌景自身も火縄銃で撃たれて戦えなくなってしまいました。
そこで家臣の志村又左衛門に自分の首を斬り故郷へ持ち帰るように頼みます。
このように二つの説が存在するため、どちらが正しいかはわかりません。
しかし、志村けんさんの先祖の志村又左衛門さんが武田家に仕えていたことは事実のようです。
まとめ
今回は
①【画像】志村けんと武田信玄の関係がヤバい?
②志村家ルーツを徹底調査!
についてまとめてみました。
日本のお笑い界のレジェンド志村けんさんと日本の歴史のレジェンド武田信玄がこのようにつながっていたのは驚きでした。
最後まで読んで頂きどうもありがとうございました。
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